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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑰(織田信長をフィルターにしてみる) [織田信長]

武田信玄の死去で謎の撤退(信長と将軍の和睦もあり)で一休みということもなく、またしても和睦したはずの義昭が抵抗を続ける。

行き着く暇もなく、生き抜けなければいけない信長にとって、足利義昭を破り、京都での憂いを絶つことになりますが、名ばかりの地位を当てに鞆(福山市)に移り、指令文書を書く勢力に出したが、京都での出来事、その前の出来事も各地に情報が流れているはずで、天皇の和睦のあとの抵抗での京都追放は、大義もなくなっているのと同じで、本当の意味で地位だけのただの人になってしまっています。

しかし、何度も抵抗するこの行動は戦人ということなのでしょうか?それとも、将軍と言う地位であるからのわがままなのでしょうか?

将軍の地位を明け渡したのが信長没後というのも気になりますが。

幕府の直臣の多くが信長側に転じたということで、名よりも実質的な地位を固めて、元亀から天正へと年号の改めも認められています。

それでも戦は終わりません^^;

天正年号の元年は京都周辺の有力勢力を討ち始めます。

三好三人衆の岩成友通を討伐しながら、自らは朝倉氏討伐へ。

朝倉義景が自刃すると、今度は妹の嫁ぎ先、信長の中では裏切り者の浅井氏。


浅井久政(父)の意見に折れる形で長政は義兄である信長を裏切る形になったのは信長も承知のことではあると思いますが、妹の嫁ぎ先でもあり、長政を弟として(信長の親族には優しい)何度も降伏勧告を薦めています。

信長の場合、過去でも書いてきましたが、自分の認めた相手に対しても、そのまま自分の部下として引き入れるところがあるので、降伏勧告に従えば、浅井氏の滅亡も無かったのではと思いますが、長政からすると、信頼されていた信長を裏切ったことに対する罪悪感が自分の筋として、この形を取るしかなかったのかもしれません。

市が信長の陣営に帰還する際、浅井・織田軍共に一切の攻撃をしなかったと言われているため、織田氏、浅井氏とも戦いたくない相手との戦いになってしまっているのですが、信長のほうも大軍勢を引き連れてきているので勧告を受け入れるしかない形を長政や妹を助ける策として、講じているのですが、長政は首を縦に振らない。

この場面は何ともいえない悲しい戦人同士の一面が見えます。

信長からすると、長政に自刃させるつもりも無かったのだと感じます。

親族の裏切りや今までの流れを見ても、長政にはこれから自分の親族として、改めて、活躍してほしいと思っていたと思います。

浅井久政、長政の頑固な行動は浅井氏滅亡という終焉を迎えてしまうわけですが、その前に朝倉氏滅亡の報も聞いているはずなので、家臣や領地の人々のことを考えたら、降伏に応じてほしかったと思うのと同時に、武に長けた武将は見当たるのですが、降伏しましょうと強く言える信頼できる軍師といえる部下はいなかったのかなとも思います。

一級史料と評される信長公記には、天正2年(1574年)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした義景・久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。

長政への思いを敢えて、こういう催しにして、先へ進んだとしか、自分は思えませんが、子供の時にこの話を聞いたら悪魔だとか思っていたかもしれません。



信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は自刃させられるとは^^;


それ以外の出来事は前のブログでも触れているので前後していることもありますが、伊勢長島攻略(前のブログに書いているはず)、松永久秀の降伏(久秀のことは、前のブログで最後まで書いているはず)


年号改めても(京都掌握しているから力業ともいえますが)、毎日が変わらない信長の生活も大変です^^;



武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡する。

義昭は、その後も将軍の地位に留まったまま各地を経て鞆へ移り、信長打倒と京都復帰のため指令文書を各勢力に出したが、次第に相手にされず、1580(天正8)年ごろには 号令を発することもほとんどなくなり、諦めている(なお、義昭が名実ともに将軍の地位を明け渡したのは信長没後のことである)。

幕府の直臣は、奉行衆、奉公衆などの数名が義昭と共に同行するが、多くは京都に残り信長側に転じた。
加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。
天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。
信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。

9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害した。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落としたが、長島攻略のため、大湊に桑名への出船を命じたが従わず、10月25日矢田城に滝川一益を入れて撤退する。

しかし2年前と同様に撤退途中に一揆軍による奇襲を受け、激しい白兵戦で殿隊の林通政の討死の犠牲を出して大垣城へ戻る。

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。

しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏はここに滅亡した。
12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。





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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑯(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

元亀2年から3年は信長のとって、先の見えない未来だったのかもしれません。

教科書(今の教科書の中は書いてあるのか知りませんw)でも有名な延暦寺の焼き討ち。

歴史あるお寺なので、退避、中立勧告を出したにも関わらず、抵抗し続けなければ、焼き討ちなど行わないと思います。
一方、延暦寺の方はいくら信長でもここまで手を出すことはないと高を括っていたのだと思います。
(高を括るとは、安易な予測をしたり、大したことはないと侮ること)

少しだけ、付け足しておきますが、信長のイメージは神仏を信じない人物と思う方がおられるかもしれませんが、全くそんなことはありません。

桶狭間の戦いでも、天叢雲剣(草薙神剣)が保管されている熱田神宮で戦勝を祈願してから、最後の戦(になると思っていたはず)に向かっています。

信長の重臣(おじいちゃんみたいな存在と勝手に妄想)で信長を諌めるために(わがまま素行の責任)自刃をしてしまった平手政秀を弔うために 沢彦和尚(信長の軍師)を開山として、織田信長が平手政秀の菩提を弔うために建立したりと、信長本人は西洋の文化や技術には惹かれるものがあったとは思いますが、キリスト教に入信したわけでもありません。

むしろ、比叡山延暦寺の焼き討ちは、神仏を盾にとる罰当たりな人間たちの所業を正すという意味があったのだとも思いますが、神仏がそれを許してくれるとしても、今の時代だったとしても、その行為に対して、多くの人の非難は避けられないものだと思います。

しかし、今の時代なら、神仏を盾にして、ここならせめて来れないだろうと比叡山延暦寺を盾に戦をする人間のほうが、信長の行為より先に非難され、延暦寺は中立せざるえない。

名門の朝倉の名も浅井氏の名も廃れるのがより早いのではと思ったりしますがどうでしょうか?

その後に、朝倉から離反者が出るということは正々堂々と戦いたかった戦人もいたということになるのではないでしょうか?

延暦寺焼き討ちを行う前にも退避、勧告していますし、中立の立場をとった場合は、焼き討ちはなかったと自分は推測しています。

反信長派からすると、信長は延暦寺を焼き払った悪魔だと日本中に広めるには、格好の材料になったとは思います。

前回の元亀の話(信長が朝倉を攻めにいったあと、すぐに義昭は元亀と年号を改めた)ではありませんが、朝倉、浅井、武田、延暦寺、本願寺、朝廷またもや、次から次へと信長に矢の手が放たれます。

武田信玄まで動いてくれる!

今度こそという思いが黒幕(義昭、もしくはその奥には朝廷)にはあったと思います。

武田信玄の長男は信長とが兄弟になっているのに、関係の濃い同盟なはずが、浅井氏に続き^^;

信玄が徳川領に侵攻したことに呼号するようにあの三好義継・松永久秀は手のひらを返して信長に謀反を起こす。

松永久秀のほうは、自分の最後は自分で決めると覚悟をもっていたのか、または時代の読み間違いをしてこの人生もう終わらそうとしたのか分かりませんが、茶器の話はよく出ますが、信長のほうは、いろいろな方法で松永久秀に会おうとしていますので、久秀が出てきたところで、許そうとしていたのではないかと思います。

一癖二癖あるこういう人間、身近に置くことでの自分の危機管理、もしくは単純に信長は憎めないところがあり、好きだったのかもしれません。

しかし、壮絶な最後を自ら演じて死んでいった久秀の差し出していた孫2人は処刑されているので、後の憂いをも断っておこうとする意図もあり、戦としての才のある久秀(妄想にはなりますが、何か信長はこの久秀に感じていたものがあったのではないと思います)の孫を残すということは、先の危険と感じたのかもしれません。

武田信玄の上洛はあくまでも室町幕府再建のためということでの上洛(実際はどうでしょうか)であり、その意図するところと、その義昭を補佐している織田家、その織田家との同盟している徳川に無断で攻め入るということは、義昭の命であり、ここで、あの17条が突きつけられるわけです。

しかし、武田軍の侵攻は止まることなく、徳川領をつぎつぎと攻略していきます。

それに呼応して、義昭の本心がついに表に出てきます。

室町幕府将軍でありながら、お飾りではないと、本人は時間が経つにつれて感じていたんでしょうね。

信長の短い時代も終わりを告げ、また室町幕府の再興が始まると思ったと思いますが、またしても、運命は信長を選びます。

信長が京都に到着したとたんに義昭の幕臣で2人の部下に裏切られます。

武田軍の侵攻が進んでいますので、なるべく早く問題を片付けたい信長は上京を焼き討ちし、脅しをかけてから和睦しようとしますが正親町天皇からの勅命が出され、和睦とあるので、上京を焼き討ちすることは本当の意味での信長の印象を悪くするので信長の家臣から朝廷への通達(信長は朝廷や天皇を無視している行動もとっているので上京焼き討ちするみたいなお知らせ)と提案(義昭を説得できるなら焼き討ち止められるかもしれないです)のようなものがあったのではないでしょうか?

和睦ののち、武田軍は謎の退却を始めています。

武田信玄の死去という理由が1つと、義昭と信長の和睦のタイミングのほうが先で、進軍の大義がなくなったと捉えること見方も退却の理由の1つにあると自分は思います。
(信玄の後の当主勝頼の奥さんは信長の妹で武田家の跡取りを生んだ後に難産で死んでしまいますが、信長と勝頼は義兄弟でもあり、勝頼自身が次の当主に2人の間の子信勝を指名しています。)

いろいろな見方はあると思いますが、武田軍と戦になることもなく、ここでも信長は運を味方に進んでいきます。


元亀2年(1571年)、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。

9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ち。

甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国の北条氏、越後国の上杉氏と敵対していたが、その後、北条氏との甲相同盟を回復させ、徳川領への侵攻を開始。
この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた
元亀3年(1572年)、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。

織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。

戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継・富田長繁・毛屋猪介・戸田与次郞らが信長に寝返った。

10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。

11月、武田氏の秋山虎繁(信友)が、東美濃の岩村城を攻める。

当主の遠山景任は防戦したが、運悪く病死。

遠山景任の後家・おつやの方(信長の叔母)は信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗したが、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、信長の援軍が到着する前に岩村城は降伏。

また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる。

これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。

汎秀は討死。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する。

これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍。

信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。

信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけてから義昭と和睦しようとした。

義昭は初めこれを拒否していたが、正親町天皇からの勅命が出され、4月5日に義昭と信長はこれを受け入れて和睦した。

4月12日、武田信玄は病死し、武田軍は甲斐国へ帰国した


のんびりとしていると寝首を取られるかもと、ゆっくりも出来ない中でめまぐるしい時間の経過と正当な交渉術と交渉に応じないときは仕方なく(それも戦略)戦。

人生50年を舞う信長にとって、人生のすべてが幻のように駆け抜けていっているのかもしれません。

武田軍との戦を交えるとしたなら、覚悟をせねばなるまいとも考えていたはずですがないまま時間が進んでいきます。





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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑮(織田信長をフィルターにしてみる) [織田信長]

久々の信長の時をすすめますが、一番最初から、信長は天運は味方につけていますが、人生は試練ばかりが続いて行きます。

それに楯突くようにただまっすぐ突き進んで行きます。

信長の京都上洛までの間に、将軍義昭を保護してくれていたはずの朝倉氏に上洛を促しながらの、信長の命に従えという脅しでもありますが名門朝倉は媚びることなく、従いません。

大軍群を率いる大名にもなっている信長は、徳川家康とともに名門朝倉の諸城を攻略していく中で、浅井氏の離反報告を受けるとありますが、これも信長の読みが外れただけです。

浅井とは妹を送り、兄弟にはなっていますが、その前に浅井は長年の同盟国である朝倉氏のことも信長は分かった上で、朝倉討伐を始めるわけなので、利害関係、勢力関係を考えると、浅井氏の裏切りはない!と読みきった信長の読み違いが生み出した敗戦です。

将軍義昭のほうはというと、信長が討伐に出かけた当日に信長には反対され続けていた元亀という年号を改元するという不穏な動きに出ていますので、信長が帰ってくるとも思っていなかったからの改元だとすると、浅井の離反も知っていたのかもしれません。

第一次信長包囲網といわれるこの戦いは、包囲網というよりは、信長対黒幕の戦いの始まりに過ぎません。

自分の中では新しい世の中を築こうとした信長は最終的には、天皇、朝廷ですら、最終的には廃止してしまうか革新してしまおうと思っていた節もあるので、(これまた妄想ですが)信長の態度や行動から、信長勢力の半減もしくは壊滅を本気で考えていた大きな意味での黒幕がいるはずです。

それになびく利害関係勢力、石山本願寺に至っては朝廷との賄賂による結びつきも強く生臭坊主そのものですが利害が一致しているので朝廷とは親密な関係だったと思います。

今までいろいろなことを耐え忍んできた信長であったからこそ、この和睦で一時休戦を選んだ(部下の進言もあると思います)のではないかと思いますが、この戦をしても戦をしても、どこかから沸いてくる勢力に、多くの犠牲(弟たちも含め)も出し、決断しても決断しても、また決断をしなければならず、疲れ果てているはずです。

和睦という形を取った時も、将軍義昭、天皇からすると、大きな恩と貸しを作ったと本人たちは思ったかもしれませんが、信長からすると、義昭や天皇が命令や勅旨を出したからこそ今回は色々な勢力が動いたという判断をしていると思うので、信長からすると、この仇をいずれ大きく返すということを考えていたと自分は思います。


元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。

織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。

挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた。

信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。

(京都に帰ってみると元亀になっているのか、浅井氏離反整えたのもお前かといいたいところですが、将軍義昭にかまっているどころではない。)

同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。

並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利。

(上洛と並行して、伊勢志摩攻略の時と同じく、他の武将には無いスピード感を感じます。)

8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵。

しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。
織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。

9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。

慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。
(比叡山に立てこもること自体、反則に感じるのは自分だけでしょうか?w)

信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する。

しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。

さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。

正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。






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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑭(織田信長をフィルターにしてみる) [織田信長]

1568年9月に足利義昭を奉戴し、上洛した信長ですが、その翌年には将軍足利義昭に対しての権力の制限をさせる掟を9か条(1月14日)、その二日後(1月16に)には七か条、その翌年の1月23日には5か条の合わせて21か条もの掟を承認させることになります。

制限といいながら、最初の年の16か条に関しては、義昭の命も含めて大事な掟だったかもしれません。


(義昭本人からすると、首を縦に振りたくない内容もあるかもしれませんが、信長に守られていることもあり、幕府の中でも、義昭の首を狙っているものもある状況、もしくは自分が傀儡にして権力握りたいという輩が周辺にいくらでもいる状況でもあるので、まあしょうがないかと、警護の意味もあるので、納得する部分もあったのではないでしょうか?)

不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
惣番衆、面々可有祗候事
各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事
公事篇内奏御停事之事
奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事
公事可被聞召式目、可為如前々事
閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事
諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事
                                   (仁和寺文書)


(最初の9か条)

・御用係や警備係、雑用係など下級の使用人は今までどおりでいいですよ。
(将軍っておぼっちゃまでうらやましいというか武将っぽくないな)

・公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに飛んできてね。
(将軍っておぼっちゃまでうらやましいっていうか武将っぽくないな)

・惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
(周りの警護や雑用する人は大変ですね)

・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること。それ以外に御所に近づくことは禁止する。
(家臣といいながら、危なさもあり、信長からも言われていたのではあると思い、義昭納得していたと思います)

・訴訟は奉行人(織田家の家臣)の手を通さずに幕府・朝廷に内緒で上げたらいけないよ。
(信長は京都を(幕府や朝廷を信じてない)信じてないのでまず信長の目の届くところを通せということですね)

・将軍への直訴を禁止。
(将軍暗殺もありえるので危ないし、信長自身も義昭が死んでしまうと、大義名分を失うどころか、将軍を守れなかった汚名もかかるので警戒の意味でも当たり前)

・訴訟規定は従来通りとする。
(信長の目を通るなら、あとは変わらずといえますが、その前の掟条文があるので、従来どおりではないですよね^^;)

・当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
(ここでも信長をまず通してということですね)

・門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽と猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。
(信長以外でも義昭警護で義昭を傀儡にしたい勢力は多くいるとおもいますので、色々なものに変装してますよね。しかし、足軽や猿楽師はいいというのは、信長の警備の自信を表すのでしょうか?天邪鬼なこの条文の矛盾さは、バランス的には不思議です。)

(次の7か条)

・寺社本所領、当知行之地、無謂押領之儀堅停止事
・請取沙汰停止事
・喧嘩口論之儀被停止訖、若有違乱之輩者、任法度旨、可有御成敗事、付、合力人同罪
・理不尽入催促儀堅停止事
・直訴訟停止事
・訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事
・於当知行之地者、以請文上可被成御下知事

ここは検索でも、現在語訳がないので、自力で大体の意味を書いてみるので、正しいか間違いか分かりませんw
(歴史学者さん、正しい意味教えてください)

・寺社の所領内(不動産も合わせて)での兵力をもつことを固く禁じるということ
(簡単に言えばそんな感じかと)

・物事の処理を将軍がじきじきにやることの禁止?^^;
(自信ありませんw)

・喧嘩や口論など世の中の秩序を乱すものは処罰にする、それを助けるものも同罪
(のような感じでしょうか?)

・道理に合わない将軍の命令の禁止
(ここも自信ありませんw)

・直訴することの禁止

・訴訟のあるものは、奉行が判断して対処する。
(織田家の奉行が訴訟を判断するということでしょうか?)

最後の条文だけは、自力でも難しいのでキャンセルしますw

大体こんな感じでしょうか><
(全くの自信なし)

この後が問題になる追加五箇条です。

・諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
・御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事
・公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
・天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
・天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

・諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状も添えて出すこと。
(幕府再建のために他の大名の上洛も頼んでいる義昭にとっては、内容を見られることにもなるので厳しいおきてですね。)

・これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。
(ようは上洛してきてということの命令だと思います)

・将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地が無いのだから、信長の領地の中から都合をつけることにすること。
(信長の権力を見せ付ける掟ですが信長の領地内にいたら、警護も監視もされ下手な動きもできない)

・天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。
(摂政政治でしょうかwいや、権力だけでなく、信長の判断で攻め込むことを将軍の上意ともとれ、将軍以上の立場でもあることを書いてあります)

天下が泰平に赴いたからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行ってほしいこと。
(天下の情勢に関しては信長に任せておけばいいので京都内の仕事しておいてということかな)



永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。
だが、これによって義昭と信長の対立が決定的なものになったわけではなく、この時点ではまだ両者はお互いを利用し合う関係にあった。

(この年の16か条では、義昭にもバランスのいい掟だった気がします。上洛も困難な中京都にたどり着き、将軍家嫡流の立場ではあるが、幕府ともに誰が裏切り、自分の命を狙っているか分からない状況なので。

3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した

永禄12年(1569年)8月、秀吉に命じて但馬を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧。

祐豊は、堺の商人・今井宗久の仲介で信長に降伏した。

21か条までの動きと殿中御掟の内容を書いてみましたが、動きが早いですね^^;

信長だけでは考えていないと思うので、ここでも岐阜や天下布武を進言した軍師の沢彦 宗恩の進言が働いているのではないでしょうか?





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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑬(織田信長をフィルターにしてみる) [織田信長]

史実と年表から独断と偏見による妄想日記もまだまだ先は長いそうです。

信長のシェフにもうすぐ追いつくかなというところまで来て、お得意の遠回りしましょう。

前回、三好一族についてでしたが、同時に行っていた伊勢侵攻と攻略の方が実は大変だった感じがあります。

上洛ということで、そちらのほうが重視されてTVでも描かれるんでしょうけど、伊勢には多くの親族を派遣しています。

二男、三男と、弟まで養子や当主と何故に伊勢という場所はここまでの地盤の固めなければならなかったのか。

それはやはり国司ということが強いのではないでしょうか。

国司とは国の行政官で中央から派遣された官史で、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていたということで、一番の悩みだったのではないかと思います。

それでも信長は伊勢へと侵攻すると、北畠一族の木造具政(分家を継いでいた次男)は長兄の具教に背いて信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男・織田信雄の家老となります^^;

怖い話といえば、前回は有名な剣の話を書いてみましたが、多分こちらのほうが現実的に凄まじかったのではないかと思います。

ここで、出てくる三瀬の変に至るまでの経過から、抹殺に至るまでは世にも恐ろしい信長の執念と、信長の中で信頼に値しないものに対しての怒りのようなものを感じます。

この伊勢攻略での残忍さの印象は他の大名も震え上がった人がいるのではないでしょうか?

(しかし、信長からすると、池田勝正の例もあり、信じれる人物、裏切らない人物にはこういった事までしない)

分かりやすいように前置きの経緯を簡単に書きます。

。天正3年(1575年)には信長の圧力によって具房も隠居に追い込まれ、具豊(織田信雄)は信意と改名し北畠家10代目当主となる。
                            ↓
北畠家を掌握したかに思われた織田氏であったが、具教と立場を失ったその側近達は心服していなかった。
                            ↓

具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。

(信玄上洛時には信長を裏切るということです)

                            ↓

この事は天正4年(1576年)には信長も知るところとなっており、この年の正月の挨拶に岐阜城に訪れた満栄を信長は待たせたまま対応せず、満栄が帰ろうとした所でわざわざ呼び戻し、進物を庭の白洲に置かせ満栄を座らせたままで縁側で刀を抜くなど挑発的な行動を見せたという。

同年夏には信意(織田信雄)が紀伊国熊野攻略を狙ったものの堀内氏善の反撃で逆に加藤甚五郎を討たれ、紀伊長島城を失うという失態を演じたが、熊野勢には元は伊勢国司(北畠)の家臣であった者もいたため更に対立は深まった。
                              ↓
                
                   そして、伊勢攻略のために、信長が動く 

   (本当は北畠10代当主は織田家次男がなっているのに影の裏切りで信長を怒らせてしまった)

                              ↓
                           
                            三瀬の変

                              ↓



三瀬御所

天正4年(1576年)11月、信長・信意(信雄)親子は北畠一族の抹殺を画策。

信長は藤方朝成・長野左京進・奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ具教殺害を指示した。
この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加を避けたものの結局は家臣の加留左京進を参加させる事になった。

(北畠との付き合いのある人たちには、受け入れられることと受け入れられないことがありますよね。しかし、本当に信長が残忍な人なら、この意に背いた参加しなかった2人は殺されていたはずでは。)

11月25日、滝川雄利・柘植保重・加留左京進の3名の軍勢が三瀬御所を密かに包囲。

内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突き、具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ずそのまま討ち果たされた。

その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男徳松丸、五男亀松丸らも殺害され、北の方(具教正室)らも走って逃げようとするなど御所内は大混乱となった。

三瀬御所では具教と2人の子の他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じた。

(壮絶さなありさまが伝わってきますが、圧力的とはいえ、親類になった信長といい縁を保っていればここまでにはならなかったと思います。)

田丸城

一方で信意(信雄)も同日11月25日に北畠家臣やその一門を一斉に集め、この機を逃さず根絶やしにしようと計画していた。
まず、朝に饗応の席と偽って田丸城へと呼び出した長野具藤(具教次男)・北畠親成(具教三男)・坂内具義(具教娘婿)の3名を招き入れて、やがて信意(信雄)が合図の鐘を鳴らすと城内の北畠家臣の抹殺を命じた。

日置大膳亮・土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らが一斉に組み付いて長野具藤・北畠親成・坂内具義を刺し殺すと、そのまま城内にいた坂内千松丸(具義長男)や波瀬具祐・岩内光安らも殺された。

更に病の治療のために田丸に滞在していた大河内具良(教通)も標的となり、見舞いと偽って訪れた柘植保重・小川久兵衛尉が刺客となって具良を殺害した。

翌日11月26日には天野雄光・池尻平九衛門尉の2人が坂内具房(具義父)らが寄る坂内御所に到着したが、既に城内では坂内の家臣たちが謀反を起こして具房を殺しており、坂内御所は具房の首を天野・池尻に差し出して降伏した。

これらの知らせを聞いた田丸直昌も北畠一門の家柄であったので防備を固め警戒したが、直昌を殺すつもりは無かったのでこれは信意が使者を送って宥めた。

田丸城に呼び出された北畠一門の中で助命されたのは信意(信雄)の養父ということになっていた北畠具房ただ一人であり、具房の身柄は変後滝川一益預かりとなって安濃郡河内に3年間幽閉された。

後に幽閉は解かれ、名を信雅(のぶまさ)に改めたその直後の天正8年(1580年)1月5日に死去。享年34。

3年間の幽閉ということで解放は死が近かったからではないでしょうか?

信雄の前の9代目当主ということで、逃亡や逃がしてしまうと、北畠再挙兵の力を持っているのでどうしてもこの方法しかなかったのでしょうか^^;

長男織田秀雄は母方のおじいちゃんの死にはどういう気持ちをもっていたのでしょうか?


変後の戦い

一連の粛清を手を逃れた北畠の将たちは北畠政成の守る防御能力の高い霧山城(多気御所)に集結し抵抗を試みたが、信長は即座に羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信ら15,000の兵を送り込んで霧山城を包囲。
12月4日には霧山城は陥落して守将の北畠政成・波瀬具通らが自害して果てた。霧山城下は灰燼と化し、霧山城も焼け落ちたのでそのまま廃城となった。

同年12月15日には信意の側近で変にも参加していた津田一安が信長の命を受けた日置大膳亮によって田丸城の普請場で斬殺されている。
その後、一族誅殺の報を聞いて激怒した具教の弟である奈良興福寺東門院院主が伊賀に潜伏し、そこで還俗して北畠具親を名乗り挙兵。
天正5年(1577年)に鳥屋尾満栄・家城之清ら北畠旧臣の協力を得て三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城に旗揚げしたが、信意麾下の日置大膳亮・日置次太夫兄弟らの活躍によって年内にはこの反乱も鎮圧され、具親は毛利輝元を頼って安芸国にまで亡命した。
これによって信意の伊勢掌握の妨げになっていた旧北畠具教・具房家臣の一門一派はほぼ伊勢から駆逐され、要衝には信意の側近たちが配置される事となり織田氏による北畠氏簒奪が完了した。

         

                 改めて、伊勢攻略までの流れを最後に

伊勢侵攻から攻略まで

伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。

更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野氏当主とした。

翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ。

後に北畠具教は天正4年(1576年)に三瀬の変によって信長の命を受けた信雄により殺害される。

こうして信長は、伊勢を攻略。

尾張、美濃、伊勢、京都と、将軍幕府、天皇、堺の財力、ここまで握られると、織田家以外の内部の反抗勢力や上洛を目指している大名たちには、危険人物でしかなくなってきます。

ここから、信長は、全国の大名たちとはどういう関係になっていくのでしょうか?

信長の生き様は毎日がイベントのようにめまぐるしく、行き着く暇がなさそうですね。
(尾張の田舎大名がと思っていた人もいたと思いますが、上洛、伊勢攻略などで印象もこの頃には変化したのではないでしょうか。)

今日はこの辺りで。





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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑫(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

上洛前(1568年)に後方の大きな憂いを先に片付けておくのはさすがに信長らしいですね。

しかし、尾張の中でも小国の当主だったはずの信長が、これほどまでに短期間の間にやり手大名になっているのは元々の器量や器、家臣や軍師に恵まれていたこともある。

やっぱり、天は信長に味方していますね。

ここで出てくる遠山夫人とはのちの甲斐当主になる武田勝頼の正室であり、信勝を生んで(武田最後の当主)早く死去してしまったみたいです。
織田信長のお母さんの妹の娘で、信長の姪にもあたる信長とは濃い血縁で繋がっている人ですが、織田家の血が武田家の当主の流れの中に流れていくことになるとは、これから先の時代の進みも面白い視点で見ていけますよ。
松姫との婚約(武田信玄の娘六女)は武田家の中に信忠(後の織田家当主織田信忠)正室を預かるという形式上の新館御料人というものが作られたみたいですが、この後、この婚約もどうなっていくのでしょうか?

武田氏との同盟が成功したことで、周りの勢力は有無も言えずに、同盟結んだことでしょうね。
(それは今の時代でも変わってないですねw)

信長上洛後は将軍とともに武田と上杉の和睦をしていますが、これも結局は、将軍義昭よりも、織田信長という名を全国区に知らしめることになってたのではと自分は思います。

美濃国において領国を接する甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世。
同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させる。
周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。
永禄12年(1569年)には、将軍足利義昭と共に武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介させる。


ここからは、前回の続きですが、足利家嫡子義昭を奉り上げ(書き方悪いw)上洛します。

上洛までの道のりがやはり困難を極めていますが、その猛攻を見越した上での決意の上洛なので、織田軍の奮起も年表の動きだけで伝わってきます。(自分だけ?^^;)


三好一族当主の三好義継、松永久秀と、上に立つ人間が臣従しているのに、さらに抵抗を続ける三好一族はこういう場面では一枚岩になれるから強いはずですね。

この動きから、三好義継はやはり飾り物だったということも分かりますし、松永久秀からすると、若い三好一族の当主をくどき落とすことにより、信長に三好一族を手土産に、自分の立場を上げれると思ったのかもしれませんが、自分の思惑どおりにはいかず、歯軋りしていた様子を妄想できます。

逆に圧倒的な軍勢の中でも果敢に最後まで戦いぬいた池田勝正は信長に能力を認められ、抵抗に対するお咎めをしないどころか加増の上で領地安堵をされるという信長にしか出来ないような逆転発想。

信長が岐阜へ帰国後、その隙を付いて、三好三人衆や斉藤家の反撃に合うも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦でほぼ撃破ということで、裏切ることも出来た池田勝正は、上記のような待遇で自分の能力を認めてくれた信長に対して、恩を恩で返した形になります。
能力主義などといわれる信長ですが、能力もさることながら、摂津の有力豪族である池田氏などを臣下に置いて摂津支配の安定を図ろうということも考えていたということは、地元の人間に地元を支配させるほど、信長は池田勝正が臣下になれば、信用に値する人物にもなることを感じていたのと、この辺りの所領はいついざこざは起きてもおかしくない立地でもあり、織田軍相手にも果敢に戦いぬいたその度胸と勇猛さも認められたのではないかと思います。
(もしも、織田家が弱体化するときがあっても、岐阜にくるまでにここで足止め時間も稼いでくれるともおもえますが、そういったことは考えていなかったと自分は思います。)



永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。
抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する。
六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。
(ゲリラ戦を繰り広げることもすごいですが、六角義賢の人生は戦国時代を象徴しているような波乱万丈ながら強い生き方をしています。)
信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好家勢力のうち、三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。
(三好一族崩壊によりの表面上の臣従であって、実力を悟ったわけではないと思うのは自分だけでしょうか?)
唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の守護への任命の恩賞だけを賜り岐阜へ帰国。
信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。
永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した。
しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。
浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。
春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。
これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。

商売人堺衆も三好一族への援助は惜しまなかったはずですが、その力も及ばずですね。

信長が、再三、堺衆にも声をかけていたはずですが、堺衆は三好一族が負けるはずが無いと思っていた(それほどに領土も広く、援助による多くの鉄砲なども有していた)ので、信長の申し出に首を縦に振っていなかったのではないかと思いますが、それが逆に裏目に出てますね。
商売人なのに先見の目がなかったのでしょうか?
信長は堺の財力をも手にすることになります。

安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとし、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成し、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い、中世の自治都市となるが、織田信長の前に屈服。
自治機能が解体され、彼らの支配下(直轄地)に置かれる。





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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑪(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

そろそろ歴史を進めなければですよね

歴史はおくが深いので自分なりの解釈や妄想できるので、遠回り大好きです。

どう考えても、これから先もたびたびかなりの妄想も含めて、遠回りしますので仕様と考えてください。

まずは上洛までの経過から。

(いや、過去の日記でもう上洛しているから、将軍の権力も握っているからと突っ込みも、信長の道を開いている出来事でもあるので書いてしまいたいと思い、キリッとした顔をして書きます!)

将軍暗殺をして、次の将軍を擁立のが可能なら、足利一門の血を引いているものを誰もが指名制度で擁立しましょうw

とか冗談を書いている場合ではなく、すさまじく恐ろしい事件ではないでしょうか?

こんなことをしても、結果的に全国各地の大名は誰もこの力づく擁立幕府には従わないことは見えていますし、権力を握ることに溺れたのでしょうか?

その前に幕府に権力は残されていない状況下なので利用されますが擁立幕府だと利用も出来ないのではないかと思います。

三好三人衆の将軍擁立の前に

信長の上洛の権力掌握の前に、

三好長慶がまず力技で京都から将軍を追い出して、三好政権を京都に樹立(幕府も健在で、天下統一したわけでもなく、実質的には樹立は出来ていないと思います)していながら、将軍と緊張関係の中での、長慶の死去。

長慶の弟達も死去していたために、後継者は幼い甥の義継になるのですが後見人がこの三好三人衆(後見人を1人にしなかったことは後に響くのは目に見えてる)がなった後に、義輝を暗殺、傀儡擁立に至るみたいですが、自分の中では、選択肢は正しいがその前が衰退を示す原因になっていると感じます。

後継者に後見人が3人もいたら、それぞれに考えが違う部分も出てくるので後見人の中でも意見対立が出てくる可能性を秘めている。

それぞれに三好一族の重臣で、場合により、意見対立が内乱に発展する可能性を秘めている。

この3人をまとめるほどの人物がいなかったのか、3人の中で率いていく人物がいなかったこと、もしくは同族なのでお互いにバランスを保ちながらやっていこうとしたのか。

そう考えると、後継者すら傀儡(甥なので)のような扱いでしかなかったのかもしれない。

しかし、長慶死去で先手必勝で義輝を暗殺した選択しについては、三好一族の今後を考えると、その選択肢しかなかったのかなと思います。

それは長慶死去をタイミングに京都の中(朝廷)や幕府も三好一族追い出しは一致していた考え(利害関係の働いていた人たちは除いて)だと思いますし、まさかの将軍暗殺は、京都の中に有無を言わさない唯一の方法だったのではないかと思います。(恐怖政治そのものですが)

それと同時に後見人が3人ということでお互いに支えあう、3人にしたことで後見人の誰かが死去しても、三好一族を崩すのは簡単ではないぞという牽制も兼ねての、3人だったのかもしれません。
(義輝暗殺後も、いい意味でそれが保たれていれば、問題はありませんが3人衆以外にも有力な重臣はいるので義輝暗殺がすべての三好一族の一致した考えであったのも疑問に思う部分でもあります)

この後、三好一族の中でも対立が起き、結果的には自分たちで自分たちを弱体化させていき、一緒に組んでいた松永との合同政権も混乱足利義昭を擁立する信長に上洛する口実を与えてしまう。


(誰が味方なのか同族同士だと分かりにくいし、本当の戦になっているのか、対立における喧嘩でしかないのか、その辺りの判断も難しいような気がします。自分が三好一族なら、どっちについていいのか分からないと思う。あとはやっぱり仲直りではないですが、誰かが折れて、はやく問題の解決を図ると思います。一族で対立していては、それを望んでいたものたちの思う壺)

中央では、永禄8年(1565年)、京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(のちの足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。
しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。
信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

この三好一族の中にも信長の家臣になり、活躍を見せる武将もいるわけですが、親族ではないので書きませんw(信長フィルターなので)

ここでも見れないところで信長に天が味方しているとしか思えない道が開けていることを感じてしまいました。

・三好一族内での対立

・義昭を保護していた朝倉家が三好討伐に動かず(勝てる見込みもなく動けない)、信長に三好討伐を指名してきた。

(他の大名にも討伐を頼んでいたとは思いますが、領地、勢力、鉄砲、財力もある三好一族は強敵でもあり、京都への距離、軍勢の数も考えると、信長以外に討てる大名はいませんし、ひょっとしたら、信長が負けることになれば、義昭自身が朝倉から三好一族に貢物にされる恐れもあったかもしれませんので信長の上洛成功は義昭にすれば、命拾いとともに、将軍として京都に戻れることと、三好一族を討ち取った信長の加護もあるので幕府再興も叶うなど義昭なりに自分に都合のいい妄想をしていたのではないかと思います)

文章のまとまりもなく、時間の経過を巻き戻しながら、妄想しながら書いてますが、歴史家でなく、妄想家なのでご理解くださいw





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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑩(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

織田信長といえば、現在進行形では、信長のシェフ(全然関係ない

いろいろな信長役を見てきましたが、ミッチーこと及川光博の信長は時代を感じさせない西洋的な雰囲気に冷静残酷にたまに見せる弱さや自分だけの世界観。

自分の中では、あの戦国時代に、こういう雰囲気の人間だったから、その時代でも賛否両論ありながら、駆け抜けた人生だったのではないのかなと、思います。

正しい間違いは、どの時代でも時代背景を元に変化していきますし、どの時代でも、人それぞれに見える感じるそれぞれに生きてきた経験から染み出てくるフィルターでまったく別のものになるものだと思います。

ここまで自分なりに信長の歴史を追ってきて(あまり進んでないし、幼少期とか軽く飛ばしてますが)人間らしさしか伝わってこないのと、教育係りだった僧・沢彦宗恩や家臣たち(最初の頃は柴田勝家にさえ見下されて謀反の手助けをしていましたが)に支えられての信長であって、独創的に見える物の見方や考えもも沢彦宗恩から影響を受けていたのではないかと思います。信長自身の歴史はかなり飛ばして書きましたので、この沢彦宗恩を教育係りに指名した平手政秀のことも本当は信長という格を作るのに重要な人物であったのですがスルーして飛ばしていましたが、やっぱり書かなきゃこれまで書いてきたことの繋がり、なぜ信長は親族に甘いか?wにその理由が見えてこないので。


織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、茶道や和歌などに通じた文化人で、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた山科言継から賞賛を受けるほどであった。
天文12年(1543年)5月には、信秀の名代として上洛し、朝廷に内裏築地修理料4000貫を献上するなど、朝廷との交渉活動も担当していた。
天文3年(1534年)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めた。
天文16年(1547年)には後見役として信長の初陣を滞りなく済ませるとともに、翌17年(1548年)には争い中であった美濃の斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取り纏めた。
また三河の安城合戦においては織田信広への援軍を率いた。
信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年閏1月13日(1553年2月25日)に自刃した。

享年62。

平手信秀は信長のお父さん、信長と2代に渡って、仕えてきていますが、多方面で織田家を支えてきた人物だったみたいですね。

ここに出てくることに何個もキーワードが存在します。

・織田家の名代として上洛(お父さんからもかなり信頼が厚い人物でないと4000貫預けれないし、賊に襲われることも考えられるのでそれを守りきれる人でないと任せられない)

・後見役として信長の初陣を見守る。

・信長と濃姫の婚約を取りまとめる。

・信長の兄である信広(妾の子供などで当主へといった考え方はない)への援軍を率いる。

・織田家中が不穏になる中で責任をとり、自刃とあります。

信長にとっては信頼のおける何でも分かって許してくれるおじいちゃんのような存在だったのではないでしょうか?

織田信広は前の日記でも触れましたが、後に斉藤家とともに謀反を画策するも計画がばれたり、その後も露骨にたびたび小規模な戦闘を起こしていた(織田家では信広は信頼の厚い人だったようなので駄々こねるというより、信長という人間になった句してなかったのか?)ようですが、それすら降伏いたあとは赦免にしているところを見ると、平手の自刃の意味を信長自身はそういう意味で取ったということにはなりませんか。

そういう意味とは、織田家中で何が起こっても、まとめ上げていくことと、当主としての忍耐力を持つこと。

自刃後に織田家中は影響力のある人物が死んだので望んでいない方向に進んでいますが、それを乗り越えられる人物にならなければいけないと、信長は感じたのではないでしょうか?

信行も信長の目の前で自刃した話を信じたいですが、何度も赦免してきた信長が家臣に命令して、暗殺したなどとは思えません。(この先、上洛して権力握ったり、寺を焼き払ったりするような人物なのでどうしても信行を葬ろうとまで思うのなら、何度か謀反起こされたときに、すでに始末しています。)

平手じいちゃんの命は信長にとって、相当ショックの強い出来事だったと思いますが、教育係の沢彦宗恩に平手にこの行動の意味を考えなされとか言われてそうです。

あなたが今なすべきことは織田家中をまとめることと、当主とは何かを考えることです(とか、勝手に妄想しています)

何かを達成するたびに失敗するたびに問答されてそうです(これも妄想)

一人の人物がこれだけのものを抱えて、個人、当主、日本の行く末まで(この時点で、奴隷も一緒に連れてきていた文明の進んでいる西洋人が攻め込んできたら勝てないし、魅力的な国でもあるが、)など、天皇、朝廷、寺社なども簡単に攻め滅ぼされ、日本はこんな連中に任せていたらなくなる。

簡潔に言えば、天皇も幕府も権力にしがみつくものに関わっている暇がない、時間がない、自分の人生もどこまであるか分からないが実現のために駆け抜けるしかない。

そういう想いがこれからの信長の行動をさらに加速させていくのだと思います。(思うより思うようにいかないのは散々経験していますから、それも信長の強さになっているはずです)




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短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑨(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

久々に、歴史年表を進めていきましょう(あんまり進んでいないですがw


正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみだった。

まずもって心得存じ候は簡単に書けば、考えておきますねということですが、天皇さんに対して、丁寧な言葉ではありますが、承知しましたとは言わない信長の心意はどうだったのでしょうか?

そして、正親町天皇はどうなっていくのか。

はい、遠回りのお時間です(おぃ!

正親町天皇の即位

弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに貧窮していた。
戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。
正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。
本願寺法主・顕如は莫大な献金を行い、天皇から門跡の称号を与えられた。
永禄8年(1565年)には、キリスト教宣教師の京都追放を命じた。

戦国時代に限らず、歴史状況により、天皇や公家達はこういう状況がただありますが、それに見合った位階を授けてくれたり、献金次第で門跡の称号を与えられたということは金の力はどの時代も偉大でありますね(遠い目で書いてますが

本願寺法主・顕如の称号を授けたことに始まり、宣教師の京都追放、キリスト教の布教と保護をしていた信長に対しての天皇の威厳と力を見せ付けようとしていますが、その後の信長の上洛により、すべては一変します。

永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。
(大義名分もさることながら、実質上の権力掌握を確実にするため。天皇としての自分の令に聞く耳ももたない織田家信長を全国各地の大名に討ち取るように勅旨をこれ以上出されないように軟禁しておく目的も兼ねての上洛。どこかの有力大名が動く前に、自ら京都へと上洛する力技に出ながらも、お護りしますなんて、このアイデアは誰の助言でしょうか?信長自身の発想でしょうか。自分の権力を確固たるものにしてしまいましたが、潰される前に行動したことでこの歴史が流れていっているだけで、上洛が遅れてしまったらと妄想すると、一歩先手を打つことに対しての決断は才能という能力かもしれません。)
この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。
信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。
一方では、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた
(表面向きの勅旨なので実質的な効果は狙っていないと思います。ただし、勅旨に従わないということは勅旨に背くものを退治してきますと、信長(本当は天皇の)の大義名分でいつでも攻めにいく口実を作ったことになりますね。各地の大名もそれを理解した上で受け取っているのと同時に、簡単には信長を攻められなくなるはずですが、、裏勅旨も送っていた可能性はあるので、効果のほどはそれほどないかもしれません。)

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。
(天皇の次は幕府権力の掌握。すべての展開の流れが早いですね。)
3月、正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した。
(この辺りは妄想でしかないですが、正親町天皇のやっていること(裏勅旨)は知った上での無視だったと思います。天皇からするとどこかで信長のご機嫌取りをして天皇としての立場やバランスも保っておくことを考えていたのではと思います。しかし、信長からしても上記に書いたとおりの天皇権威の利用と口実づくりのための存在でしかないので返答は避けたのではと思います。実際に何度も譲位を持ちかけたという話や天皇のほうからの退位をもちかけたという話があったりと、どちらの話も残されているということは、真実は闇の中にすることで実際はどちらだったんでしょうか?この2つの話があるというのも興味深いですが、自分は天皇から退位を持ちかけたのではないかと思います。それは『お湯殿の上の日記』が御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記ということと機密日記であったということでこのことに限らず、いろいろとその当時の出来事が正確に書かれていたはずなのでわざわざ機密日記に嘘を書くようなことを女官たちは出来ないと思うので。)

実質上の権力と権威を握った信長のこれからがようやく始まりますが、今回はこの辺で(相変わらず、あまり進まないし妄想もあふれながら書いていますがスルーで構いませんのでw




短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑧(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

今日も少し遠回りして、寄り道しましょう(何故だか

信長といえば、楽市楽座。

ただし、これ以前にも楽市楽座に似たようなものを大名の中で政策としておこなっていたものはあるものの、ただの楽市があったとしても、似ているようで似てないところがあると思います。

楽市楽座とはで検索すると

楽市・楽座(らくいち・らくざ)は、日本の近世(16世紀から18世紀ごろまで)において織田信長、豊臣秀吉の織豊政権や各地の戦国大名などにより城下町などの支配地の市場で行われた経済政策である。
楽市令、「楽」とは規制が緩和されて自由な状態となった意味。
既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場をつくり、座を解散させるものである。
中世の経済的利益は座・問丸・株仲間によって独占され既得権化していたが、戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図ったのである。
天文18年(1549年)に近江国の六角定頼が、居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが初見とされるまた、今川氏真の富士大宮楽市も早いとされ、安野眞幸の分析では翌年の織田氏など以後の大名による楽市令などに影響を与えたとしている。

ありますが

楽市楽座オンリーでこの政策を見てはいけないです。

頭の中を丸くして、人として信長を覗いて妄想してみましょう。(勝手にしてますw

信長の行った楽市楽座は商売をする人を自分の城下町に増やすために他の大名たちとは違う政策も同時にして、流通を良くしたということです。

それは、何箇所もあった関所を最小限(完全に廃止にはしてない)にして、物の流通や人の流れを円滑にしました。

公家や寺社の特権を奪うことも出来まるということもありますが、色々なものを見たい知りたい信長からすると、そこはおまけに程度に過ぎないじゃないのかなと(家臣たちの前ではそう言わないだろうけどw

その意味は、のちのちに公家や寺社を敵に回すことを考えると、普通の大名なら、やらない政策だと思うのでw

何箇所もの関所で取られていたお金も軽減されるので、商人の利益も増え、店の数も増え、結果的には良循環のなかで税収も増える。

なおかつ、関所のほぼ廃止に伴い、今の時代でいう道路のような街道を作りました。

ただ、この2つのことをやってしまうと、敵の間者が商人に扮装し、紛れ込みやすくなる。
(関所が少ない分、大きな街道を作ったとしても、どこからでも入り込めるようになる可能性が高くなるので)

織田軍の動きも分かりやすくなってしまう。

織田軍の動きもその街道を使い戦にいくのであれば、筒抜け状態丸裸になってしまう。

それと同時に敵が攻めにくるときも分かりやすくなる。

と、同時に、攻めにくる敵のほうからすると実はどこかに伏兵がいるのかもしれないといつもより、さらに疑心暗鬼にもすることが出来るかもしれません。

でも、よく考えてみると、大軍で動くこの時代の戦で、街道を使用しなくても、普通にばれそうです。

信長からすると直接的に税の取立てが出来ることと、こういう交通網をさらに拡大していくことを考えていたのではないでしょうか?

日本製品の大規模な輸出と、世界中のあらゆるものの輸入をして、より色々なものを死ぬまでに目にしたかったのではないかな。

政治家的な部分、商売人的な部分、地球儀を見たら、戦国自体すら馬鹿らしく思えていたのではないのかな。

だんだんと、信長が社長のような存在に首相のような存在に思えてくるようになりましたw

西洋の文化や製品を直接見たり、触ったり、話を聞いていたら、憧れたり、その身に着けた知識をヒントにいろいろな政策を考えた可能性もありますね。

ほかの大名(近所の今川家)が楽市をしていたから、それも影響したのではというようなこともあるかもしれませんが楽市楽座はそんな小さな考えで始めてない気がしてしまいます。

いろんな製品が集まれば集まるほど、日本のいろんな物も見れるし、西洋人との物々交換にも使えると自分なら考えます。

西洋で言う蚤の市に近い感じの何でもありのフリーマーケット場所代取りますよ的な市だったのではないでしょうかと、長々とした楽市楽座のイメージを妄想してみる。

この時代だと、日本限定で考えると市そのものではなく、総合的に考えると革新的な政策であると思います。

信長のことだから、闇市などにも出向いたかもしれませんw

自分の支配領地内での市でのお忍び店廻りもしていたかもしれません。

子供の頃からのお忍び癖は多分直らないはずなので。

妄想いっぱいですが、人間らしい信長像を感じたあとは、また戦の時を進めようと思います。




短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑦(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

夏といえば、カキ氷(もしくはガリガリくん

じゃなかった

怖いもの見たさの季節ですが

最新デジタルの加工が出来るこの時代は作成された幽霊で溢れていますね。

そして、信長といえば

刀にまつわる話があります。

圧切長谷部(へしきりはせべ)

南北朝時代に山城国の名工の長谷部国重が作ったといわれていますか、銘なしです。

圧切と言われるようになった話が怖いのと同時に、刀の切れ味はそれほど凄まじいのか^^;

無礼な振る舞いをしてしまった茶坊主が信長を怒らせてしまった。
信長が刀を手に取ったので茶坊主は慌てて膳棚(ぜんだな)の下に隠れてしまった(かなり幼い子供?)。
棚が邪魔で刀を振り下ろせなかったため、棚ごと茶坊主の胴体ごと圧切(へしぎり)にしたとされるところから圧切長谷部(へしぎりきりはせべ)と呼ばれるようになった。

岐阜城で信長に謁見した黒田官兵衛(黒田孝高)が圧切長谷部を拝領することとなった。

圧切長谷部は代々黒田家に伝えられ、現在は国宝として、福岡市博物館が所有。

曰くつきの刀が国宝ということと、長い月日が流れても、消失せずに残されていることに驚きます。

ただ、この刀、最初の持ち主は誰だったのでしょうか?

織田家の家宝だったものなんでしょうか?

この話とともに現れて、銘なしなのに、時代や作成者が伝わっている。

織田信長が持っていたことと、この話の合わせで、有名な刀になったような匂いがしなくもありませんが、その刀が国宝となるのは、やはり、作成者が長谷部国重だと分かる人には分かる作りなんでしょうか?

今の時代、デザインからではなく、その刀の成分分析からも、刀の質や産地、打ち手が分かる技術があるのでぜひにいろいろなものを本物かどうか、銘のないものは科学的に鑑定してほしいものです。

ただ、骨董品でも思うのですが、デザインや作りや産地が違い、偽物や贋作と鑑定された中にも本物があるような気がするんですよね。

それは、自分がたとえば、陶芸家であった場合、普段使わない材料や作り方、焼き上げ温度、いびつなデザインなど、遊び心をもって作りたくなります。

中にはこんな変なおもしろいやつできてしまったけど、作品としては表に出せないなあ

そうだ、近所の人に上げて使ってもらおう^^

そういう中で脈々と生きてきた本物が大作であるのではないかあと思ったり。

極めた技術で自由な遊び心を加えた作品は鑑定人でも見分けつかないと思います。

なぜなら悟りを開いているような作品なので、その人の作品にないものが浮かび上がるようなものに出来上がってしまうと自分は思うからです。

なので、贋作、偽物、古いものだけど、本人の作品ではないといわれて安い評価を受けるものの中に大作が紛れ込んでいて、作者が幽霊になって見ているなら、笑っているかもしれませんね。

それは本当は、わしが作った本物だけど鑑定人にも見極めれない作品が作れて満足、満足と言っているかも知れません。

人間の短い人生の中でも、何世代もの人の寿命を幾度と乗り越えて、脈脈とそうやって受け継がれていくもの、云われのあるものは、どう鑑定されても、その家の家宝であり、そういうものを守っていくという心も合わせて、また時代へ経ても大切にしていくことも教えてくれるものだと思います。

圧切長谷部も信長寄贈から黒田家に渡り、今は博物館に渡り、大切に守られています。

人生の視点から考えると、偽物、本物なんてないですね。

骨董の価値なんて、時代時代で変わりますし、価値のなかったものが人気になれば、高騰もするし、評価額は株のようなものだと思います。

大事なのは、なぜその高価なものは価値がつくのか、その作品の深みはどこにあるのか。

信長は、茶器、刀、西洋骨董、いろいろなものを収集しては、家臣たちにあげていますが、日本と西洋文化の違いを感じながら、世界へと胸を躍らせていたのではないでしょうか?

(圧切長谷部は信長の怖さや短気を印象付けるような話ですが、本当にあった出来事なのでしょうか?そこはその時代のその場所にいた人だけが知る真実であると自分は思います。)

途中から話は全く違う方向にいき、まとまりもありませんがそこは仕様なので、今日はこの辺りで。





短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑥(織田信長をフィルターにしてみる)   [織田信長]

気が付けば、歴史はそれほど動かないのに6回目になりました。

信長をどの辺りから天下統一を狙い始めたのか。

前回の話にも関わってきますが、自分は上洛できる最短の距離にいる。

この場合の最短は、幕府寄りの武将や、足利一門が京都周りを占めていたので、そこは含めずに考えるという意味でのことになりますがそれを意識したのは、やはり今川衰退、東の憂いがなくなり、あとは美濃さえ手に入れば、地盤が固まる。

信長の生まれた織田家は、本家織田家の守護するような立場であったために、名門だとは将軍だとか幕府だと拘りも恐れも忠誠なども感じたことはなかったと思いますし、幕府の影響力が役に立たずに戦国時代を迎えているのだから、日本は今こういう状況になっているとは感じていたと思います。
自分なりの妄想では信長は争うことの愚かさを常に感じていた人物ではないのかとずっと思っています。
しかし、尾張統一、今川襲来、謀反など、それどころではなかった信長が、徳川家康との同盟、浅井長政との同盟、斉藤義龍の死去により、美濃を攻めるタイミングが来た。
しかし、それでも正直、斉藤家の分裂がない限りは、斉藤家も有力な家臣が多いので、そう簡単に勝てる相手ではないのも十分に分かっていたと思います。
ここでも、信長には、ゲームで言えば重要アイテムがあります。

道三の遺書、信長の奥さん、。斎藤道三の末子(斎藤 利治)美濃斎藤家当主を名乗る

(斎藤 利治は最後まで織田家家臣として孤軍奮闘する場面がありますがそれはまだまだ先の話)

正統斉藤家は、義龍で間違いありませんが、これだけ揃い、義龍は斉藤から美濃一色氏初代を将軍から称することを許され、名乗る。

この辺りも義龍亡きあとの斉藤家分裂のひずみを生む一端になって言ったのではないかと思います。
もちろん、桶狭間の奇跡的な勝利(信長というより、氏真臆病者と思っているので天が味方した感じで本当に奇跡だと思います)、徳川家康との同盟で、本格的にようやく美濃攻めに集中できることを斉藤家の内部でも議題に上がっていたと思うし、色々な意見が出て、割れてしまうのはしょうがない。
その分裂を味方につけ、血を見ず、戦をせず、戦に勝つというのも理想の勝ち方かもしれません。


桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。

斎藤義龍が急死したことにより息子の斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利。

斎藤氏は家中で分裂が始まる。

浅井長政と同盟を結び、信長は妹・お市を輿入れさせた。

伊勢方面にも進出し、当地の諸氏とも戦っている。

永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠後、加治田城主佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(中濃攻略戦)

西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につける

永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。

このときに、岐阜と改称した。

同年11月には僧・沢彦宗恩から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめる

この時、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。

 
すごく簡単にまとめていますがここでまた家族のような人物の一人が表立って出てきます。

子供の頃からの信長の教育係、そして信長の参謀の一人でもある人物ですが、岐阜への改称を提案したり、天下布武の進言をしたり、信長の未来軸をアドバイスした信長にとってはとても信頼できる知恵者であり、伺いをたてるような人物だったのかな。

父親の死去、平手政秀の死去、その平手政秀が依頼した教育係りであるこの人物は休息のない信長にとって、話をしているだけで休まる人であり、時間でもあったのではと感じます。

気づけば、尾張、美濃2国持ちの大名になってしまいましたが今日はこの辺りで。





短い人生の中で生きる意味を考えてみる。⑤ (織田信長をフィルターにしてみる) [織田信長]

戦国時代は天下統一していたであろう武将がことごとく届かない^^;

その原因の一つが京都までの距離

(いくら有力武将であっても、距離が遠ければ遠いほど、上洛するまえに、さまざまな国の領土を通っていかなければいけないので、大軍勢であっても食料も含めて、たどり着けるのか、そこを考えなければいけない。)


その原因の一つが年齢

(人生50年の時代ですが戦での討ち死にも多いだけにそれを含めた言葉なのか?w、天下を狙わなければ、長生きできるかもしれませんが、上洛を狙うなら、大軍勢に加え、本人の体力、根気、集中を切らさずに進軍しなければいけないので大事なことだと思います。)

その前に上洛はするのに天下統一を自分では狙っていない幕府よりの武将もいます。

その中で、今川家というのは上洛にも距離的にはほど近く、尾張は通過点にしか過ぎなかったはずが、この後は衰退の一途へと進んでいきます。

桶狭間の戦いで織田信長の名は瞬く間に全国区になりましたが、それと同時に上洛の難しさ。

上洛に際してはその土地を留守にするので、周りの諸国との打ち合わせもありますが、勝てることを見越しての進軍になるので敗走してしまうと、今川家の衰退のようになる可能性もあるということを頭に入れておかなければならない。

名門だろうと謀反や離反でこうなってしまうのかと、全国的にその恐ろしさも伝わったことだと思います。

結束力などその他の原因もただあるとは思いますが、そのすべてを含めると、自分の中では、不可能にさえ思えてしまいます。

桶狭間の戦いでは、今川家は、多くの重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が討死。

桶狭間の戦いの後の今川氏は三河の松平氏の離反に加え、東三河でも、国人領主たちは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる。

小原鎮実が人質十数名を龍拈寺で処刑したために多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。

これを機に、信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。

信長と家康は、清洲同盟を結ぶことになりますが、桶狭間の戦いでは、多くの三河武士も織田家臣も討ち死にしているので、この同盟はお互いの家臣団の中は一枚岩ではなかったと思われます。
しかし、それを言っていられる状況でもなく、お互いにとって、有益を優先した同盟だったと思いますが、信長にすれば、これで東からの侵略に悩まなくて済む大きな有益の盾(三河)が出来るので、領土拡大に動けることが出来、家康のほうは、あくまでも今川家への対抗策でしかなく、両者の有益の差は大きいと思います。
家康の場合、上には武田家もいるので攻めるところはなくなりますが、その前にまず三河の統一を目指すことになります。

信長は自分からではなく、いろいろなことが常におこっているので、それに対処しながら(明日はわが身という気持ちを持っていたと思います)徐々にアグレッシブになっていくイメージがありますが、この同盟により、本当の意味で自らが動き始めるきっかけになったのではと思います。





短い人生の中で生きる意味を考えてみる。④(織田信長をフィルターにしてみる)  [織田信長]

今川義元が無能である根拠より、優れた大将である行動がここに垣間見れます。

なんだかんだと、どうにか内部や外部からの問題を片付けてきた信長や織田家の疲労をよそに、完璧に打ち勝てる体制と軍勢を整えた上での尾張出陣は恐ろしいまでに計算に計算を重ねた進軍であったと思います。

戦法を切る徳川家康にしろ、今川義元にしろ、後ろにいた軍師であり、先生でもあったと思う太源崇孚雪斎この人がもう少し長く生きていれば(桶狭間の前に、60歳で死去していますがこの時代では長生き)今川軍に死角はなかったのかもしれませんがその慢心が心の余裕や隙を見せてしまうのかもしれません。

尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へとついに動く。 駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。 織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。 今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落。

今度こそは、まったなし、織田家の滅亡が間近になってまいりました。(妄想ではw)

織田軍といっても、戦力の差がありすぎなのに、信長だけでなく織田軍もよく戦い抜こうとしていますね。

時間稼ぎの捨石になることも厭わないほどの魅力がこのときの信長には見え隠れするようにはなっていますがそれとは異なり、織田家が敗北することは自らの衰退に繋がる可能性もあり、活躍して死んだのであれば、その後もしものw勝利のときはその後の家には恩恵があるからなのか。

でも、武将に関しては、敗北後も、勝ったほうの軍に雇われたり、上の役職の人だと、そのまま尾張を任せられることもある時代なので、今度こそ、ここで謀反を起こせばという最高のタイミングなんですが、こんな時に何も起きない。

むしろその前までの一連の出来事が信長という人物、織田家の結束を高めてくれたのかもしれません。

この戦いの前に上洛して将軍に謁見しているのも信長らしくなく(足利一門の謀反手助け未遂の後なので、黒幕は将軍かもしれず(だと思う)、命を狙われる可能性あり、100名くらいの手勢だと危ない)、信長らしい行動(しかし、それも計算と謀反手助け未遂の弱みを握っているので謁見できないことはまずない。

あと将軍に対して、攻める気はありませんよという意思表示を見せることで織田家内部の将軍とのパイプのある家臣たちにも安心させることと、信長と将軍が繋がることで謀反も起こしにくくなる)だと思います。

織田軍が敗走、敗退していく連絡ばかり受けながら、信長は己の覚悟を決め、精神統一していたのかもしれません。その中には自分が陣地におく砦、向こうが布陣するであろう場所、しかし、一般的な戦のやり方ではどうやっても勝てない。 それは理解していたと思います。 常識的には勝てない戦。 策を練りに練ったがこれまでかという想いと、砦で死んでいった人たちにも想いを馳せていたのかもしれません。 いよいよ自分も同じ場所(死去)へと行くときが来ました^^(おぃ! 永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、昆布と勝ち栗を前に、立ったまま、湯漬けを食べ、出陣し、熱田神宮に参拝。 その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、の命で本国駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。

しかし、これははっきりいいまして、今川氏真がおかしい。

家督を譲られ、父親が討ち死にしたら、大軍勢を一気に織田へと号令を駆けずに退却したのか。

慌てたとはいえ、所詮は少数で、前当主を討ち取ったからといって、戦が終わるわけではない。

ここでは信長は天に助けられたというより他ありません。

未だに桶狭間の戦いは、かっこよく書かれることが多いですが、そんなことはないと思います。

このときの信長は退却していく今川軍を見ながら、生きる心地もなく、安堵したんじゃないかと自分は妄想します。

信長事態も桶狭間の間に尾張の中に、今川軍に隙を見せるような行動とったり、農民たちから差し入れ渡したりと、今川軍を安心させるような行動と同時に、今川軍の進軍や武将や軍構成などの情報をちくいち入れていたなどの史実なのか脚色なのかは分かりませんが、TVなどでもそういう絵を入れ込んでるものもありますが、どちらにしても、本当なら勝てる相手ではなかったのが正解だと思います。

しかし、なぜ、今川義元は討ち取られたから信長は勝ったで桶狭間は終わるんでしょうか。

自分が信長なら、義元は討ち取ったがここから当主はどうでる?

ここからが正念場だとさらに集中している場面ですが。

結果論だけでいえば、歴史評論家と言われる人たちのとおり、桶狭間、義元討ち取りで勝ちかもしれませんが戦をしている人たち、信長の立場なら、今川退却の報があるまで終わりじゃないですよね。

と、信長フィルターが独自に働いてしまいました。

案の定、器量のなさ、判断力のなさで退却した当主今川氏真はこのあとすぐに三河の武将に反旗を裏返され、今川の衰退の一途をたどっていくので自分の感じたことはそのままなのかと思います。
徳川家康(もともと人質)にしても、氏真の元ではやってはいけない。
あの時、そのまま織田へという気持ちはあったと思います。
義元が大将だったとしても、父を討ち取られたら、それを取り返しに行くことをしなかった氏真という人物のほうが弱弱しく、当主に向いていない人だったと感じます。

それにしても、信長の人生は過酷ですね。






短い人生の中で生きる意味を考えてみる。③(織田信長をフィルターにしてみる)   [織田信長]

第三回目になりますが、その前に、義龍についての書き方が自分の中で平たく簡単に書きすぎたので、第2回目の義龍について、修正しました。

信長に関しても文章力がいまいちで、すべての家臣の信頼がないわけではないのに文章が下手で自分の意図する(あくまでも妄想)ことが書けていなかったので修正しました。

読み返して、また出てくるかもしれませんが、自分の文章力をつけるための学びにも頑張ります(おぃ!

あくまでも信長を軸に捉えた視点なので、そういう意味での能力や器量なので、一国を統治する器がなかったとは、義龍に対して、思っていません。

人間である限り、完璧な人間もいません。

人間の脳が100%いや50%でも覚醒したら、今の人類からすると完璧に見える人間が生まれるのかもしれませんが、世界でも有名なアインシュタイン博士でも10%前後、自分のような一般庶民だと2-3%くらいしか脳の潜在能力は使えていないままに死んでしまいますが戦国時代の人は今の時代の人より、絶えず死が目の前にあり、先頭を切って戦をする人物たちは寝ているときでも脳がフル稼働していそうです。

はい、また関係ない方向に行きましたがそこはスルーして本題へと(本題もかなり違う方向へ流れていきますが気にしないでください)

(信長の動き)

同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。 新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。 こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。

兄弟の謀反の問題も片付け、いよいよ尾張をまとめ上げることに成功します。

が新たに守護として擁立した斯波義銀にまたしても裏切られそうになる^^;

(斯波義銀の動き)

しかし、当初は吉良氏と席次を争っていた義銀も、斯波氏の権勢を取り戻そうと吉良氏と結んで信長の追放を画策するようになった。義銀は尾張に御座所を構えていた足利御一門の石橋義忠、吉良義昭、今川義元、河内の服部友貞と通じ、今川の軍勢を海上から引き入れようとしたのである。 しかし、この密議は信長に知られるところとなり、義銀は尾張を追放され、大名としての斯波武衛家は滅びた。のちに上洛した信長により、武衛家の京屋敷は、将軍・足利義昭の居城として利用された。

擁立してもらったのに斯波は、今度はさらなる欲をもってしまったみたいです。

しかし、信長の敵でもある、両勢力、それに加え、足利将軍と足利家を滅ぼし、天下統一を狙っていた今川家の両方から手を貸してもらえることを本当に思っていたとしたら、都合を良すぎで考えていますね。
今川家からすると、尾張を平定したとしても大したことない軍勢、将軍という地位についていたとしても、今川家からすると、倒すべき相手になる足利家、この両者は相容れないと思います。
上洛前までは足利家になびいているように見せたい今川と、信長よりもあわよくば、幕府の力の守りの強化になる尾張に斯波が誕生したらという思惑も。
逆にもし、ばれることになったとしても、擁立した斯波家から裏切りが出れば、織田家はまた混乱し、勝手に弱体化してくれる。
足利家も今川家も手を貸す約束をしながら、自分たちで織田家にばらすような情報を流したのではないかな(その前に情報戦に強い信長だと尾張統一のために、それすらも見抜いて泳がしたのかもしれないですが)と勝手に妄想します。
それにより信長の耳にも入り、追放されてしまったのでは。
2家からすると、織田家の弱体化は、願ってもないことだし、将軍義昭は武衛家の京屋敷を居城として利用したということは足利一門が追放を手伝おうとしたのに、この時点での信長は義昭のご機嫌取りをしている(ように見せかけてる)ので、今の自分の立場(織田家)をよく考えた上での事柄ではないかと思います。
義昭や足利一門からしても、今川家の天下獲り情報は入っていたはずだし、尾張の盾が出来れば、その間に自分に従う諸国の大名への時間稼ぎも出来るというお互いの思惑が見え隠れします。
刻々と絶えず、情勢が動く中での信長の判断能力、足利一門の家臣団の判断能力も今川家の思惑もお互いに優れているのと同時に戦国時代といいながら、戦せずに戦をしている姿が影で見え隠れします。

しかし、ここでも信長の1.2回からの変わらない姿があります。

追放したはずのその後、河内国の畠山高政の庇護の下、キリシタンに入信したといわれる。のちに信長と和解し、その際に名を津川義近と改めた。娘の一人を信長の弟・織田信包の長男に嫁がせ、織田家との縁を深め、織田政権下でも織田家親族中の貴種として遇された。

怖い恐ろしいというイメージの信長と和解し、その後織田家で活躍する。

斯波家はその後も長く続いていくので気になる一族ですが、信長主軸なのでここまで。

追放されたのに、和解しにいったら、切り殺されそうなイメージのある信長は信頼の出来そうな(あくまでも出来そうな)親族にはやっぱり優しい?

裏切れれそうになったり、裏切られたりして、なぜそんなに許せるんでしょうか?

思惑、策略の戦国時代の中で、信長という人物の深さは書くたびに増していくのか、それとも人間らしさをより感じていくのか分かりませんが今回も時代はあまり進んでいませんが、ここまでということで。





短い人生の中で生きる意味を考えてみる。②(織田信長をフィルターにしてみる) [織田信長] [織田信長]

はい、すでに二回目で歴史的には順番違いますが、

そこはタンスの中にしまっておいて(一生ださなくていいですよと)

織田信長といえば、奥さんの父は美濃のマムシ斉藤道三。
斉藤道三といえば、息子義龍に攻められ、敗れて戦死。


天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立し、道三の娘・濃姫と政略結婚と言う割には、政略結婚らしくないのは馬が合ったのでしょうか?

信長は道三に何を感じ、道三は信長に何を感じたのか、すごく知りたいです。

お互いに見えている景色は違うとは思うのですが、一番大事な部分が同じだったのかもしれませんが、それが何だったのか?

すごく知りたいです。


信長

(道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。)
道三
(戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を信長に渡した)

お互いに家族として強い繋がりを感じる行動をしていますね。

道三はこのときに無能といっていた義龍の評価を改めたといいますが、これは器量や能力ではなく、兵力差でも道三が勝てる見込みもなく、義龍側に旧臣がついた事柄などから、濃姫だけでなく信長を寵愛している感じなので、息子の義龍、斉藤家の先ももっと力を入れて、考えていれば良かったということでの後悔もあったのではないかなと思います。

信長ほどの秀でた能力がなくても、斉藤家の家臣が義龍についたということは、上に立つ器をもっているというこという意味もあり、斉藤家を引き継げる人物ではあったことを意味しますが、信長に魅せられてしまって、そのことすら見えなくなっていたのかもしれません。

織田家の中でもこの時点での信長の兵力も少なく、信長の器量も家臣により、個々に物差しの見え方が違い、信頼に至るほどでもない家臣も存在し、織田家の結束も弱いなかでも、省みずに道三を助けたかったこの行動はこの後の信長の戦略や冷静さはなく、感情や気持ちの高ぶるままに大切な人を失いたくないという一心での進軍だったのではと思います。

そして、この敗走後、次々にこの戦の代償と思われることが起きます。

織田家を信長には任せられないという謀反が織田家内部で拡がってしまいます。

兄弟による謀反や未遂が数々起こり、旧主の織田家との戦も繰り広げますが、信行(今は信勝)やそのあとの庶兄の信広と義龍の謀反未遂後、信広も赦免させていることからも血脈で争うことに対してはゆるしています。後に信長が変わっていくとしたら、この時点での信長は命を取り合う戦であるのにも関わらず、自分の命を取りに来ている家族をどこまでも許していることが驚きです。
何度でも命を狙いにくる血脈、目の前でいつも命を狙われている状態でも謀反を自分方の織田一族が謝ったら赦免する。
信広(信長の兄でありながら妾の子なので織田家では当主にはなれない存在)もこの後は織田家の年長者としてすごく重要なポストを任されたりしていますが戦で戦死していますが京都では朝廷との繋ぎ役もしていますし、謀反などあるとは考えなかったのでしょうか?
織田家連枝衆の中ではまとめ役的な存在であったということでまた裏切られたとしてもの覚悟も持ちながらもこの後でまた謀反を起こしたとしても、赦免していたのでしょうか?

この時点の織田信長なら、答えはYesなのかなと思いますが、これから先を考えると分かりません。

信広の場合は、信長の情報網で謀反を起こそうとしていることがばれて、未遂になったわけですが、この信長の情報網は甲賀忍者を抱えるまえなので織田家の中の策略合戦の中で家臣の中も信長以外の兄弟を推していた内乱のようなごった返した状態の中で信長は毎日過ごしていた様子を妄想すると、自分なら精神崩壊してしまう気がします。

まだまだ先は長いのですが、信長という人物はいつ死んでいてもおかしくない武将ですね^^;

器量など能力は別として、人としては不器用、自分の描く真意を見せない。

この後に魔王と思うような行動もただただありますが、自分はそれすら魔王とは感じません。

すごく人間らしさのある それでいてその真意は自分で考えよ 感じろというような人だと自分は思うのでそう感じれるようにこの続きも書いてみよう。






短い人生の中で生きる意味を考えてみる。①(織田信長をフィルターにしてみる) [織田信長]

最初の日記から凄く重いタイトルは付けてしまった気がするけど、自分のためにもいいかな^^;

時代のせい 置かれた環境のせい 生まれた場所のせい 誰かのせい 運のせい

今の時代は何かのせいにいつでもできる

その何かのせいにしても、それを乗り越えて、成功する人間もいれば、何かのせいにして、前に進まない人間もいる。

大半の人間はその流れの中で生活を営んで死んでゆく。

自分自身もそういう人間だと思う。

他人を気にしない人間は前に進むことが出来る
他人を気にする人間も前に進むことが出来る

しかし、ここにも二択の人種がいる。

細心の注意を払いながら、前に進んでいく人と、何も考えずに進んでいく人。

どちらも成功も失敗も乗り越えながら、進んでいくことには変わりはないのかもしれない。

選択肢次第で人生は変化していく。

歴史上の人物でどうしてもその先が見たかった人がいる。
織田信長がもし生きていたら、日本という国は色々な意味で違う国になっていたのではないかとどうしても想像してしまう。

残虐なイメージ魔王のあだ名もつけられている織田信長という人はじっくりと考えると、短い人生を世界に目を向けるだけでなく、日本という国を生まれ変わらせる行動力と、先見の目と、自分なりの正しい道を生きて死んでいった人なのかもしれない。

でも、よく考えると、宣教師を優遇していたのに第六天魔王って一向宗もすごい呼び方考えましたね^^;
キリスト教の布教と文化を取り入れる魔王ってその時代の武将の中では最強ですね。

戦国時代は親兄弟であっても裏切りや謀反を起こす時代であり、信長に対する弟の謀反でさえも二度は許し、
負けた林秀貞、柴田勝家も許している。
その後、織田家の武将に暗殺されたとも、信長を謀殺しようとして返り討ちにあい、信長の目の前で自刃したということになっていますが、家族に対して、信長は不器用ながらも大切にしている人だというのが分かる事柄がある。

(2度も弟信行の裏切りにあいながらその嫡子信澄は信長の側近としての役割も果たし、安土城の造営においては総普請奉行である丹羽長秀と共に普請奉行として工事に携わるなど、織田一門の中では叔父の織田信包と共に信長から信任されて特別扱いされていた)ということらしいので、自分の中の善悪、大切なものははっきりしていた人ではないのかなと感じます。

この信澄という人に至っては裏表が激しいのか評価が分かれる人物らしいので、それも見えていて信長は優遇したということは、弟の息子だからこそ、大切にしたのではないかという弟を暗殺した信長のイメージとは異なるし、それとは別の説では、信行は差し違えもできず(もう多分兄を殺す気持ちはなくなっている気がします)、信長の目の前で自刃したともあるので兄への葛藤と憧れを抱いたまま、同じ血が流れているため、当主にもなれない運命も合わせた想いで謀反というよりもコンプレックスで織田家を巻き込んでしまった責任も取ったのではないかと自分は妄想してしまいます。

しかし、この事件の3年後で人生最初の人生をかけた今川義元との桶狭間の戦いがあるので織田家のまとまりがなく、ここで謀反や裏切りが多数出ていたら、勝利もなく、ここで織田信長という名前はそこまでの歴史になっていたのではと思います。

戦は一人では出来ず、柴田勝家の裏切りにも討ち勝ったあとのこの戦は柴田勝家自身も成果を問われ、命もかけなければ自分自身も終わってしまう。柴田勝家自身を考えると先の織田家のための謀反加担(信行事件)であり本人は謀反とは思っていない気がしますし、本来は裏切るような人物ではないのは、勝家の生き様を最後まで調べたら分かりますが、信長の妹も柴田勝家を選んで結婚し、最後を共にした話からも窺えるのではないかな。

弟の謀反、自刃事件のあとだから、桶狭間の戦いも生き抜くことというよりも逝き抜くことの気持ちをより一層強くして戦いに望んだのではないのかなと思います。

しかし、今の時代にこんなことあったら、桶狭間の前に自分ならどうするだろう。

もうどうでもいいとか、当たって砕けろとか、思えるのかな。

どう作戦を練っても、勝ち目のない戦をどう戦うかということを最後まで考える精神力があるのかな。

織田信長という人の家族(家臣)へのイメージは、強く厳しい愛だと自分は思います。

この戦の前から織田信長は情報戦も展開していたり、八方から作戦を自分の中だけで立てていたりもしていますが、戦の前から終わるまで人智を超えた戦いをしていたそういう想いが強いからこそ、より冷静にいろいろな角度から物事を考えたり、直感を生かして(直感とは経験から導き出されるものだからその人の生きてきた人生の結晶のような能力だと思います)桶狭間の戦いは自然の神様も味方になり、当主の首だけを狙う大胆な作戦と、勝利するかしないというより、その時その時で瞬時に作戦を柔軟に変えられる人物だったのではないかなと思います。


(間間にぜんぜん関係ないことも書いているような書いていないような気がしますが生きる意味を考えています)

これからその先も書いてみますが今日はここまで。




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